Novel
小説
ソルビテム酒石酸塩錠5mg
※この物語、薬品名はフィクションであり、実在の薬品・人物・団体とは一切関係ありません。
※薬は用法・用量を守って正しくお使いください。
深くなる思考と止め処無い感情に溺れそうになった時、睡眠薬に頼りたくなるのは他にこの深い水中から逃げる術を知らないからだ。
開いていた薬学書を置き、束ねられた睡眠薬から1錠分、手のひらに落とす。量の調整はその日の体調次第で一錠多くすることも半分に割って飲んだりすることもある。
今日はさらにもう一錠出した。通常の倍。
薬に頼りすぎるのは良くない。そんなことは分かりすぎるほど分かっている。しかし、そんな理屈なんか何の役にも立たない。この不快な息苦しい海から脱するには、これしかないのだ。
たった数ミリグラムの白く無味無臭の小さな玉がどれほどの影響を与えてくれるのか。
効果は、思ったよりすぐに訪れた。今日は薬の回りが早いようだ。
服薬後しばらくすると訪れる、重だるい空気。全身の倦怠感は苦しいものではなく、むしろ冬場に布団の中にいるような心地良い温かさがある。
沖融たる怠さを抱えたまま横になる。目に映る景色が現実味を失ってゆく。
机の上に置かれた薬学書の表紙の文字がゆらゆらと波打っている。角張ったゴシック体がじわじわと滲んでゆき、そのまま表紙からペロリとめくり上がってふわふわと宙を漂っていく。
開かれたままのPCには平面的な文字が和紙の上を滑るように流れてゆく。和紙の滑らかな質感がモニターという平面内で表現された段差というものを消してしまう。全ての文字がモニターの上を滑り、外に行きたいと、ここから出たいと叫ぶ。叫びに従い文字たちを空へ泳がせる。
空中を彷徨う文字を追っているうちに、脳の中で絡まっていたもやもやとした何かも文字たちのようにどこか高く遠いところへいき、思考が疎らになってゆく。
つい数刻前まで敵だった苦しみの海は、今は優しく体を包み込む柔らかな味方だ。
何もかもどうでもいい。考えたくない、考える力すらも奪われてゆっくりと重力に導かれるままに落ちてゆく。
何か考えてきたことはあった。なんだったろう。何を考えていた? 邪魔しないでくれ。覚えていないんだ。立ち上がると思ったよりも軽い水中は重力が減少したかのように足元が軽い。動くスピードが早くなる。水をとって持ってくるだけの作業がとても早く動ける。動くと疲れる。水を飲もうと思ったのに。グラス。サイドテーブルに置き、すぐベッドに倒れ込む。もう体も何も動かせない。何をしようとしたんだったか。ああ、頭も働かなくなっている。
先程まで渦巻いていた悩みとも不安とも焦燥ともつかぬ不可思議な感情。その感情の出処。過去の思い出。そういったもの全てを海の上に残してきて、自分1人だけがふかく、ふかくしずむ。
視界も曖昧になり、暗く青く澱んでくる。その暖かい澱の中に引きずり込まれるように、意識も体も全てが闇に飲み込まれていった。
◆◆◆
机の上に水の溜まったグラスがある。
書籍に零さないよう水の入った状態で放置しないようにしているはずなのに。…ああそうだ、昨夜自分が用意したにもかかわらず、一口も口にすることのなかったのだった。
薬の作用が効いている時は記憶が曖昧でいけない。
しかし薬を使った翌朝は体調がいいのだ。問答無用で体のスイッチを強制的に終了させたことで十分な休息がとれているからではないかと分析している。
精神安定剤を使った日は心の安定感と客観的に冷静に物事を見る力が増している。元来そういう気質はあったが、悩みがあっても悩みのない時のように振る舞える。考えられる。
仮にも医師免許を持たんとする者がこんなにも薬漬けでいいのかと思わなくもないが、悩みに生活に支障を来たし、薬を飲まず浅い眠りを何度も繰り返すより余程健康的な生活を送っている。
ソルビテム酒石酸塩錠5mg。神経抑制機構を強め、催眠・鎮静作用のある薬だ。超短時間作用型で効果の持続は4~5時間程度。寝覚めの倦怠感も少なく依存性も比較的低いこの薬は、多忙で長く寝ていられないこの職業にはちょうどいい。
精神安定剤は睡眠導入剤と比べると比較的減りが少ない。心を落ち着かせようとするより寝てしまったほうが何も考えずに済むからだ。これは逃げではない。答えの出ない悩みに無駄な時間を消費されないようにするための効率的な行為だ。
精神安定剤と睡眠導入剤という単語の纏う後暗いイメージとは裏腹に、薬は己の体をまともに動かす事に大いに役立っていた。
そのため初めはあった後ろめたさも、今では治療に必要な処方だとすっかり割り切っている。
……最近、処方量を若干超えてしまうことが増えた。
問題はない。処方されているのは1錠5mgのもので、10mgのものや更に強い効果を持つのものもある。つまりはこれは体調によって変化する必要量の誤差だ。
だから大丈夫。問題ない。
私は健康で、精神が安定して、冷静で、悩むこともない。
彼が亡くなってもう何年経った。思い出して感情を乱すことも無くなった。関係ない。
精神的に問題などない。現在の自分の立場に満足しているし、周囲の人間との関係も良い。金銭的にも、肉体的な問題もない。
最近量が増えたのは少し多忙だったためだろう。安定すれば、また元に戻る。
合わなければ別の薬に変えても良い。
全ては順調にうまくいっている。何の問題もない。
問題など、何も無いのだ。