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バスルーム

Author:ちゃだ

サーカス団「トロンプルイユの匣」は移動式サーカス団である。
そのため居住区は基本移動時はコンテナ、公演時は会場近くにテントを張ったりスポンサーの用意したホテル等の宿泊施設に泊まる。
今回の公演はテントでの宿泊だった。
ホテルと違いテントは不自由なところも多く、団員の中では好まない者もいるが、ダスティン=ベンカーはテント生活が嫌いではなかった。むしろ趣があって好きだ。
初めてテントでの生活を経験した時は、その非日常感に若干高揚したのを覚えている。
今ではもうすっかり慣れてしまったが、やはりテントはサーカス団らしくて良いと思う。
ただ1つ不満点をあげるとすれば、バスルームが狭いことだ。
そもそもサーカス団のシャワールームは共同で、複数のコンテナに存在するのだが、現在ダスティンが使用しているのはテント内に設置できる仮設バスルームだ。
一般団員は共同シャワールームを使用するが、役儀持ちは個人用にこうした仮設シャワールームを使用することが出来る。団長ともなればバスタブのついたバスルームを利用することが出来る。
それはとてもありがたい。のだが。
「おい。まだ?」
団長専用のバスルームで入浴剤の甘い香りに染まった浴槽の中、我が物顔をしている人間が一人。
そんなことをするのは彼しかいない。
エリオットである。
副団長でもある彼にも専用のシャワールームがあるのだが、バスタブのある団長専用バスルームを自分専用にして久しい。もともとバスルームに大きなこだわりのないダスティンにとっては大した問題ではない。彼の髪や体を洗ってやるのもいつもの事だ。
しかし今日は、いつもと違うことがある。
「あぁ、悪い。今から髪、やるから」
「早くしろ」
少しぼうっとしていたことを咎められ慌てて手を動かすが、ダスティンの思考は逸れたままだ。
数時間前、自分は彼に告白をした。
同性同士ではあるが、付き合って欲しいと言ったのだ。
彼からの返答は「試用期間を設けたい」だった。
今まで幾度となく恋人関係というものを経験してきたが、試用期間というのは初めてだ。
正直完全に彼の意図を理解しているとは断言できないが、とりあえずは経験通りの恋人への接し方で良いのでは無いかと思った矢先、いつものように、風呂の手伝いを命じられた。
いつものように、である。
試用期間とはいえ恋人だ。恋人と同じ風呂に入るとはどういう意味なのだろうか。
訝しんだが彼の通常通りの振る舞いに、そんな考えを持つことに罪悪感を覚えた。
普段通り、彼は裸で湯船に浸かり、自分は上着を脱ぎ裸足になっただけの格好で彼を洗ってやる。
「恋人とバスルーム」とは思えない光景である。
お試しの恋人になっていきなり今までの関係性が大きく変わってしまうようなことが無かったことに安心もあるが、戸惑いもある。
彼はいつも通りかもしれないが、最近彼への好意を自覚した身としては複雑な気持ちだ。
自分はそれほど意識されていないのかという落胆と、意識しているのは自分だけかという小さな不安。
そう、自分は彼を意識していた。
近い。このバスルームはいくら団長専用とはいえ移動式の仮設バスルーム。2人で入るのは狭い。ただでさえダスティンは身体が大きいのだ。エリオットも小柄とは言えない体格をしており、正直窮屈である。
十分に足を伸ばせないほどの湯船に膝を抱えて座っている。乳白色の湯から白い膝と肩が出ている。
頭を洗うために持ち上げた髪の下に覗くうなじはほんのり桃色に染まっている。
何度も見た光景だというのに、なぜそれらが扇情的に見えるのか。
今まで何度もこうやって身体を洗う手伝いをし、着替えさせ、一緒に寝てきたというのに。
一度恋心を意識したらドキドキするなんて、初恋をしたばかりのティーンエイジャーのようではないか。
サーカス団に入って初めて、バスルームのサイズに文句を言いたい気持ちが生まれた。
せめてもう少し広ければ、こんな近くで彼の体温を感じさせられずとも済むのに。
エリオットの長い髪に丁寧にシャンプーを馴染ませ、頭皮を優しくマッサージする。
彼が心地よさそうに小さく息をついたのにも、色気を感じてしまう。
自分は比較的恋愛経験も性経験も豊富である自覚はあるし、今までこんなにも緊張し高揚することは無かった。なのになぜ、この程度のことで心臓の鼓動が主張を始めるのか。
「じゃあ、流すぞ。…目ぇ瞑って」
大人しく目を瞑った彼の相貌は整っており、美しい。
暖かい湯に上気した頬は赤い。
視線を髪に引き戻し、丁寧に泡を流してゆく。
そういえば、自分が今まで他人と肌を見せあった時は、家族を除けば全て性行為しかなかった。
他人と風呂に入るなんて妹の世話以外にはありえないし、それも妹の物心がつく頃にはやめた。家族でも女性だからだ。
男として当然のことではあるが、ダスティンは女性を大切にする。どんな女性であっても変わらないが、恋人なら尚更だ。相手の肌に触りたいと思っても、彼女から言葉や態度で了承の意を確認できない限りは少しでも強引なことはしなかった。
力の強い大柄な男だ。ほんのわずかでも怖い思いをさせたくなかった。
しかし今はどうだ。身の回りの世話の延長線上とはいえ性的な意味で触れていいのか確認もないうちにこんなにも肌に触れてしまっている。そもそもはそんな確認をする関係じゃなかった。
でも今は違う。仮ではあるが恋人だ。しかし、性的なことに関しては何も分からない。そもそも意識しているかどうかすら怪しい。
自分だけが意識している罪悪感。何も分かっていないような無垢な存在への背徳感。
自然と髪を触る手も、無意識に洗髪というより愛撫に近くなってくる。
いつもと手つきが違うことを感じたのか、浴槽の縁に頭を凭せ掛けたまま目を開け、上目遣いでこちらを見る仮の恋人。不思議そうな顔をしている。
「手、今日なんかいつもと違う気がする。どうした?」
「…いや? いつも通りだと思うが。トリートメントするぞ。前見て」
視線が注がれるのが何故かいたたまれない。頭部を持ち上げて視線を逸らせば、されるがままに前を見る。
こんな小さな頭を無防備に預けてしまう彼に危うさを感じてしまう、自分の方が危ないのかもしれない。
心を無心にするように丁寧に髪にトリートメントを丁寧に馴染ませていると、エリオットはぽつりと言った。
「気のせいか、顔が赤く見えたけど。…もしかして照れてんの?」
咄嗟に手を止めてしまった。反応出来ず、無言でトリートメントを再開する。
「……綺麗だな、と思っただけだよ。トリートメントのしがいがある」
「……それって、髪の話?」
「綺麗」のところでぴく、と体が揺れたのが愛おしい。こんなの何千回と言われ慣れてるだろうに。
問に返事はせず、ぽんぽんと終了の合図のように頭を叩く。
「流すから、目閉じて」
さっきはすぐに目を閉じたのに、何故か今は疑うような視線を向けられた。
どうした? と、シャワー片手に首を傾げればなんでもないと言うようにフイと顔を背けられた。そのまま髪にゆっくりシャワーを当ててゆく。
「……風呂、狭いな」
「どうしたんだ今更。広いから俺のを使うって言い出したのはお前だろう」
「そうだけど」
呟くその表情はこちらからは見えない。でも、少し見える頬と耳が湯に浸かっているせいだけじゃないほど、赤く染まって見えた。
もしかして、自分と同じように意識しているんだろうか。
尋ねたところで否定されるのは分かっている。
けれどもしそうだったら​──。
自分の都合のいい解釈をすることにして、ダスティンは「終わったぞ」と声をかけた。
彼は振り返らない。
湯を止めたシャワーを戻し、「先に出るぞ」と言いながらバスルームを出た。
きっと彼は出てくる頃にはなんでもないような顔をしているのだろう。
それでいい。さっきの反応はきっと、勘違いじゃない。
あんな近くで見たんだから。
先程恨んだバスルームの狭さに感謝した。
このまま意識してくれればいい。どんどん意識して、俺を好きになれ。俺しか要らないくらいに。
今度こそ、お試しではなく本当の恋人に。
そして本当の恋人になったとしてもきっと、今までと同じように風呂も手伝わせてくれ。
それはきっと、遠い未来じゃない。
ダスティンは小さく笑い、"お試し"恋人が出てくるのを待った。

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